最近の中学受験の国語の読解問題は、
A.伝統的な読解問題の出題を続ける学校
B.革新的な出題を始めた学校
C. AとBの間で試行錯誤する学校
に分かれつつあります。が、どんな出題トレンドであれ、知っておいた方が良いことがあります。例えば、説明文で頻繁に見られる「逆説的論法」です。
過去の出題例で言えば、「現代人は、エアコンという文明の利器を用いた生活に慣れ、エアコンの効いたタクシーの運転手は冷え性に悩まされ、エアコンの効いたオフィスで働くOLは夏でも膝掛けが欠かせない」といった文章です。
また、「宮崎駿は、世界中の人に理解されるような作品を作り出せる普遍的思考ができたからこそ、アニメにおける日本の独自性、文化性を獲得できたのだ」という批評も逆説的論法です。
他にも知っておいた方が良いことがあります。「自己」というキーワードです。


例えば、会社の管理職として電車に揺られる女性。そんな彼女も週末になると母親として子どもを何処かに連れて行ったり、妻として夫の実家の法事に参加したりと、「他者とのいろんな関係性から自分を浮かび上がらせる存在」だったりします。
そしてそれは今では、子どもたちも同じです。塾で勉強を頑張る一方で、匿名のハンドルネームでオンラインのネトゲーに時間を費やす。いろんな側面を見せる人間だったりします。
果たしてどの「自分」が「本当の自分」なのか。自分の中のそれぞれの「自己」という概念はすべて調和が取れたものなのか、それぞれの「自己」が衝突することはないのか、自分の中の「自己」という概念が破綻をきたすことはないのか。
そういった現代社会を浮き彫りにするキーワードが、中学受験国語にもすでに進出しています。例えば、心理学者の榎本博明氏が子ども向けの新書「ちくまプリマー新書」シリーズのために書き下ろした「自分らしさとは何か」
という書籍は、本当に多くの学校の入試問題や模試で取り上げられました。
また、この「自己」という問題を小説の中で見事に扱った「カゲロボ」は、渋々を始めとする複数のトップ校で出題されました。
少し前ばらしになりますが、この小説は、両親が離婚する際に一人娘の親権を巡って争いを止めるために、娘と区別がつかないロボットを専門会社に頼んで作ってもらうことから始まります。ところが、母親は自分が引き取った「娘」が、本当の生身の「娘」なのかロボットの方の「娘」なのか区別がつかないために苛立ちを抑えることができずロボット会社に「娘」の回収を依頼することにしました。当然、ロボット会社は「娘」の「回収と処分」に乗り出すわけですが、どちらの「娘」を回収できるかはロボット会社にもわかりません。それはすなわち生身の「娘」にとっては「死」を意味します。
そうして、ロボットの「娘」と生身の「娘」は、それぞれ親の元を離れ二人で決死の逃避行を開始するのでした。

ところで、なぜこのような大人にとっても難しい問題を中学受験の国語で扱うのか。
国語の教員免許を持つ小説家、清水義範は、現在のテクニック偏重の国語の入試問題の現状を「国語入試問題必勝法」という小説で面白おかしく、しかし鋭く批判しましたが、その後に著した「初めてわかる国語」というノンフィクションのモノグラフィの中で、清水の親類でかなり実績を出している中学受験塾の経営者である男性の発言を引用しています。
この経営者の男性は、「中学受験合格のキーとなるのは結局は国語であり、それは学校側が精神的に「ませている」子どもを求めているからだ」と主張します。


実際、中学受験部の例外を除いて、受験生より年上の人間を対象にした文章や大人向けに書かれた文章が題材としてほとんどです。
また、子どもの発達心理学上、小学校高学年になるともう一人の「自我(セルフ)」が内面に発現し、時には感情的に暴走する自己を「ちょっとやめとけよ」と押しとどめたり、怠ける自分を「そんなんじゃダメだぞ」と叱咤してくれるようになります。まさに平野啓一郎の本のタイトルのように「自己」が「分人化」していくわけです。この「自分の中のもう一人の自我(セルフ)」が出てくると、人はよりよく「内省」できるようになります。逆に「内省」が出来ない青少年は、昨今の特殊犯罪を見ればわかるように自己をコントロールすることができずに社会に出ていくことになります。
が、中学受験を成功させるための親の過干渉や過ぎた管理によって、子どもの成長過程での「もう一人の自己の発現」や子どもの「内省力の獲得の機会がどんどん遅れているのは、まさに皮肉なことでありパラドックスとしか言いようがありません。
では、どうすれば良いのか?受験と子どもの健全な発達をどう両立すれば良いのか?
それに関しては、以下の本を紹介することを示唆としていったん結びたいと思います。




