中学受験といえば、算数をいかに克服するかに焦点が当てられがちですが、受験の要は実は国語だったりします。
そして、中学受験は「おませ度」を測る試験でもありますので、中学生や高校生、そして大人が読むような文章も題材として出題されるのです。
ただ、ここに来て国語の題材に「異変」をきたしている学校が複数あります。それは、
「単に、大人が読むような文章を出すのではなく、過度に学術的な文章や、漫画のワンシーンや、ブロガーがWeb上に書き殴った文章や詩を題材として出す学校」です。
例えば悠仁様も通われた世田谷区の東京農大では、最近の国語の読解の問題で、ロバート・アクセルロッドのゲーム理論を題材にした文章が出ました。ロバート・アクセルロッドは、ゲーム理論の研究の中で「相手が協調的なら協調し、相手が裏切ったらやり返すのが正しい生存戦略」というのを主張した研究者で、各国の顧問を務め、自らの研究を紛争の解決に応用しようとしました。
が、そんなことは大学の経済学部でミクロ経済学をよほどきちんと勉強した方か、彼の主著「対立と協調の科学」を読んだ人しか知りません。
また、渋谷区表参道にある名門私立・青山学院中等部では、ラカン派精神科医として活躍したフランソワーズ・ドルト女史の「フレデリックとアルマン」が出題されています。これは、失語症や失禁などの問題症状がある幼い男の子フレデリックをドルトが診察するのですが、彼女は試行錯誤の末に、このフレデリックが問題行動を起こす原因が、彼が物心つかない歳で別の家庭に引き取られ、勝手に名前を変えられて育てられたことを突き止めます。人間にとって「名前」を与えられる、もしくは「名前」を奪われるというのはどういうことかを考えさせる問題ですが、これはアイデンティティや「自己」という概念について、ある程度の知識がないとなかなか理解できない題材です。
また、、「将来、広尾学園のように躍進するのでは」と言われる三田国際では、解剖学者でベストセラー「バカの壁」を書いた養老孟司さんが、宮崎駿のアニメがなぜ世界に認められたかを考察する文章が出題されたことがあります。養老孟司氏は、そもそも日本の文化というのは、古くは中国、として西欧のキリスト文化なども咀嚼し飲み込みながら独自の発展を遂げてきたのであり、「世界中に理解できる普遍性を備えたものを生み出せる、普遍的な考え方ができるからこそ、日本のアニメは世界に通用する固有性を獲得てきたのだ」と、主張するのですが(実際はかなりクネクネした文章で趣旨を掴むのがかなり難しい文章でした)、「普遍性が固有性に通じる」というのが感得できないと、何をいってるのか理解できない文章です。
また、最近、桜蔭など複数の人気校で出題される最果タヒの文章などは、逆説とパラドックス、空想と現実を行ったり来たりする文章ですが、養老孟司さんの文章と同様、主張の論理が直接的ではなく「これを小学生に読み解かせるのか」と、昨今の国語の出題レベルの苛烈さに、筆者などは思わずため息を漏らしてしまいます。
これらの文章を読み解けるようになるにはどうしたら良いか?
いろいろ方策はありますが、少し列記すると、
・あるテーマに関して親子でディスカッションする
→ニュースなどを題材に「賛成説」「反対説」など、多角的に議論するのが
大事です。
・抽象的な議論に慣れさせる
→インターネット社会において、「自分」という存在は、多層化、分化して
います。小学校で実名を書いて答案を提出する自分。ネットゲームで匿
名で別の人とやりとりする自分。などなど、自分という存在が「文化」
しているのです。こういった抽象的な話をどう理解されるかがカギに
なります。
・「論理的な思考力」と「要約力」の両方を身につけさせる。
→池田晶子、榎本博明などの哲学者、心理学者の子ども向けに書かれたものを親しませるのは良いです。また、朝日新聞の「今とき国語教室」の問題文を要約させるのも良いトレーニングになるでしょう。
・歌詞のある音楽を聴かせる
→歌の歌詞を聴いて、その情景を頭の中に浮かび上がらせる。というのが昨今のお子さんには欠けており、そのため詩や短歌、俳句に異様な苦手意識を示したりします。言葉をイメージ化する力がつけば、論理的思考力の弱いお子さんはその弱さをある程度補完することができるのです。
大手有名塾の幹部が数年前、保護者会で「問題の多様化、高度化で塾にできることが限られつつあります。どうか、家庭でのお子さんの教養の涵養を」
と述べたのは、いみじくも現在の中学受験のへの対応の難しさを示しています。
